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自由に生きたい看護師のブログ

透析中止問題のその後2 患者が希望したら医療者は患者を死なせていいのか?という問題

空を眺める車いすの人

透析中止問題が問いかけること

 前回に続いて透析中止問題の話。そこから考えることについてです。メディアの報道の仕方がどうであれ、 今回の透析中止問題が投げかける問いは、

 
患者が死ぬことを選んだ場合、それを認めるのは正しいことなのか?
 
ということです。
 

患者が死ぬことを選んだ場合、医療者は患者を死なせていいの?この問いの答え

この問いに正解はありません。
みんなそれぞれ言い分があって、ある人は正しいと言うし、ある人は正しくないと言う。そしてみんな、自分の考えが正しいと思い込んでる。
 
何が正解かは地域や時代、社会状況によって違います。なのでそれぞれの言い分を聞きつつ、妥当な答えを探さないといけない。そういうタイプの問いです。
 
ということで以下は私の言い分です。
  

私の考えは、患者の意志は尊重するべき

 病院で働いて亡くなっていく患者さんを少しだけどみてきた私の考えは、たとえ死を早めることになっても、患者がそれを選択したなら尊重するほうがいい、です。
 
悲しいけども、人は生まれたからにはいつか必ず死ぬ。死は避けられないです。
 
どうしても死が近いことが避けられない状況になった時に、人生の最後に求めるものが人によって違うのは当たり前です。
 
患者が死ぬことを覚悟して残りの人生の過ごし方を考えているときに、人間は必ずいつか死ぬという事実を無視して、医療者や他の誰かの価値観を当然のように押し付けていいとは思いません。
 
 
どんな選択であっても患者は自己決定権があります。大切なのはその意思決定の過程のほうです。
患者がきちんと意思決定ができる状態だったのか、
正しい情報に基づいた判断なのか、
医療者は十分にサポートできていたのか。
 
そういうことのほうが大切だと思うんです。
 
 

入院して弱る高齢者

病気になるのは圧倒的に高齢者が多いです。
高齢になると体力も回復力も落ちます。若い人と同じようにはいきません。
なので入院して逆に体が弱る高齢者もいるのです。
 
これって医療者にはものすごーく当たり前のことです。
 
でも病院で高齢者を見る機会って医療従事者でない限りあまりないので、そこがイメージできない人って案外多いんじゃないかと思います。
 
 
例えば、90歳を超える超高齢者では手術に耐えられる体力がなく、治療できないことがあります。
 
自宅で自立して暮らしていた高齢者が、入院すると体力が落ちて歩けなくなったり、認知症が進んだり、かえって状態が悪くなることだってあります。
 
治療のために入院しても、高齢者の場合必ずよくなるわけではありません。
 
病気はよくなっても生活する力が落ちて寝たきりになった場合、どちらが本人にとって幸せでしょうか。
 
そんなの、わからないですよね。それは本人が決めることです。
 
病気を治すかどうかだけではなくて、どんな生活を望むのか。
高齢者になるとそういうことも含めて考えないといけないのです。
 
医療者は自分自身の価値観や信念を患者に押し付けるべきではないです。
だから、選択の自由はあるべきだと思います。
  

3人称の視点と2人称の視点

とはいえ、患者が望んだら死なせていいなんて、そんな考え許せなーい!と嫌悪感をもって批判する人もやはりいます。
価値観は人それぞれなのでそれはそれでいいんですが、こういうとき私が思うことが2つ。
 
3人称の視点からみると理想論になりがち、ということ。
そしてもうひとつ、親の介護をした経験などがある人は、自分の経験から考えてしまいがち、ということです。
 
 3人称の視点では理想を追い求めてしまう
普通に考えると、人の命を諦めて何もしないなんてこと、到底受け入れることなんてできません。苦しんでいる人がいたら助けたいと思うのは、人が持つ当たり前の感情です。
 
でもこれって、個別な事情を考えない一般的に考えた場合のことです。自分でもなく、家族や友達にいる身近な人でもない。その他の見知らぬ誰かの3人称の関係で考えた場合です。
 
こういうとき、理想的な正しさを追い求めてしまいがちです。
 
 
でもそれが2人称の関係性、家族や友人、身近に知っている人だと理想だけではどうにもならないときがあります。

 

例えば苦しんでいる人がいたら助けたいと思うのは普通だって、先ほど書きました。

でも、それが見知った誰かだったらどうでしょう。
 
例えば、職場のイヤ~なパワハラ上司だったら?
いつも何かとうるさく嫌味を言ってくる厄介な同僚
自分を捨てて他の女と結婚して幸せそうな元カレ
あるいは不倫していた元旦那とか?
 
誰かわからないけどもしそういう嫌いな人が苦しい目にあってたら、むしろちょっと心が晴れるかも。
 
 
 
他にも例えばいじめ問題。
 
学校でいじめられて自殺する中学生の話を聞くと、いたたまれない気持ちになります。生きていたらもっと別の人生だってあったのに。死ぬ以外に解決する方法が何かあったはずなのにって。
いじめってどう考えても許されることではないです。いじめのない世の中が理想です。
 
でもいじめる当事者にとっては、いじめはなんら悪いことではありません。
 
いじめてるほうは大抵、遊びのつもりだったって言います。いじめは遊び。
いじめられるほうにも問題がある、とまで言う人もいます。
 
教室の狭くて閉じられた環境では人間関係が濃くなりヒエラルキーができていき、いじめはどうしても起こってしまう。
しかもいじめられるほうに問題がある、とまで思えるようになる。
 
でも、これってわからなくはない。
 
 
外側から客観的に見た世界、3人称の関係からみた世界ではいじめは絶対に悪いことです。
 
けれどももっと近くて閉ざされた生の人間関係になると、人間同士の関係性や感情がぶつかり合い、いじめがおこってしまう状況にもなり得る。 
 
複雑な事情が絡み合う現実の世界では、理想を振りかざされてもどうしようもない状況があります。
 
 
 
話が飛びました。
医療の話に戻ります。
 
言いたいのは、3人称の関係だと一般的な考えで物事をみてしまうということ。
そういう視点では、理想で判断できます。
 
 
でも、2人称の関係になり当事者になると、3人称の世界では見えなかった細かい事情や、いろんな感情が絡み合い、死を受け入れることが仕方ないと思える場合だって、悲しいけれど、どうしてもでてきます。
 
 自分の経験をもとに考える人
また、自分や家族で誰かが病気になったり亡くなったという経験した人。その時に自分の感じたことをもとに、価値観が作られることもあります。
 
そういう人はその考えが絶対的なものになってしまうことがあるようです。
 
自分の感じ方考え方と、他の誰かの感じ方考え方は違います。
自分の経験をもってすべての人にそれが正しいとは言えないです。
 
 

いろんな価値観を認めるのがいい

価値観はいろいろです。
 
患者を見捨ててはいけない、
医療者は患者を死なせてはいけない
 
これもいろんな価値観のうちの一つでしかありません。
 
この価値観を認めると、
もし自分が癌になったら苦しい治療は希望しない。病院ではなくて自宅で安らかに最期を迎えたい。
 
こういう価値観が無視されてしまいます。
 
誰かの価値観を絶対的なものにして、ほかの価値観を持つ人を無視するのはよくないです。
多様な価値観を認めることが大事なので、医療者も自分自身の価値観や信念ではなくて、患者の価値観や信念を尊重するべきです。
 
患者自身が選択できるようにすることが大切なんだと思います。
 
認めることから始まる
この問題をよりよい形で解決する方法は、死ぬことを選ぶような辛い状況にある人もいる、とまずは認めることです。
 
いじめ問題でも思うんだけど、いじめは絶対にあってはならないと、いじめゼロを目標にしてしまうと、学校はいじめがあることを認めず隠蔽しようとしたり、かえって解決が難しくなります。
 
そうではなくて、いじめはどうしてもおこってしまう。なくすことはできないことを認めたうえで、じゃあ起こった時どうしたらよりよい解決ができるか、と視点を変えて考えることが必要だと思います。
 
いじめをゼロにするよりも、学校に通わなくてもいいシステムを作ったり、いじめにあった時の逃げ道を用意するほうが現実的だと思うんです。
 
 
同じように、死ぬことを選ぶ人もいると認めることがまず大事。
 
それがないと、
そういうときに医療者はどう意思決定をサポートしたらいいのか、
間違った情報をもとに判断していないか、
何か身体的・精神的な問題を解決したら他の選択肢を選ぶ余地があるのか、
誰か相談相手がいるのか、とか
 
そういうしくみを整えることができないですから。
 
まあ、私が思うのはそんなかんじ。
なんの権威もないただのぺーぺー看護師の考えですけどね