ジユログ

自由に生きたい看護師のブログ

大人になることと寛容さ

今日は書きたいことを書いてみようかな。大人ってなんなのかって話。

 

学生から社会人になったばかりの頃、私は自分のやりたいことや都合を抑えて、まわりや社会の常識に合わせてその時その場に望ましい行動をとれること、そういうのが大人になるってことだと思ってました。

 

 

小さな子供はまわりのことなんて考えず、不機嫌、怒りなど自分の感情をそのまま表現して相手にぶつけます。よく言えば自分に正直、悪く言えばわがまま。

 

小学生、中学生くらいになると、自分の言ったことやしたことで嫌われたり、うまくいかない経験をします。そういう失敗を繰り返すことで、だんだん人とのちょうどいい距離感とか上手な付き合い方を学んでいきます。こういうのを社会性を身につけるっていうのかな。

 

そして大人になると、自分の感情とか都合よりも、社会的にこうするべきとされている規範に従って行動するようになります。そういうことをできるのが、私にとって大人でした。

 

 

ここからはちょっと私の話なんだけど、社会人になってしばらくの間は、というか学生の頃からずっと、ちゃんとした人になりたくて社会のルールとか常識に沿えるように頑張ってたんだけど、どうやら私には合わなかったようでして。社会に馴染もうとすればするほど、なんかうまくいかなくて苦しいんです。

 

社会のルールとか常識って、どう考えても無駄だったり合理的でなかったり、自分に合わないものもありますよね。それでもそのルールに従うことが正しいんだとしてると、どんどん自分の中にのみ込み切れない矛盾が蓄積していって、そのうち

 

いつからあるのか、誰が作ったのかも分からない決まり事に従うことが自体がそもそもおかしいんじゃないの?

 

こんな苦しい思いをしてまで社会に従う意味がどこにあるの?

 

と世の中のほうを疑うようになりました。それでこれまで自分を苦しめていた社会のルールや常識にしがみつくのをやめると、不思議なことにむしろ視界が広くなって自由になったんですよね。

 

これはいわゆるブレイクスルーとか、価値の倒錯とかって言われてる感覚だと思います。これまで常識の枠組みの範囲内で物事を考えていたのが、そもそもこの常識の枠組みは正しいのか?って考えられるようになったんです。

 

これはすごく不思議な体験でした。体にぴったり張り付いていたものがべりっとはがれて自由自在に形が変化するようになったかんじ。世界が広がるっていうのはこういうことを言うんだなと。

 

そう思えるようになるまで内省したりもがき苦しんで、長い期間が必要でした。よく海外旅行にいって世界が変わったとか言う人がいるけど、そんな簡単に世界は変わらないよって思います。

 

 

で、この常識の枠組み自体を疑うってこと、実はものすごく大事なことだと思います。

 

 

社会的なルールや常識って、場所や時代が変わればまったく違います。それなのに私たちはたいてい、他の人が自分と同じ価値観や常識を持っていると錯覚していて、誰かが何かをしなかったことで相手を責めてしまいがちです。なんでこうしてくれないの、普通こうするでしょ、てなぐあいに。

 

でも自分の考えや常識が、当たり前でも絶対的なものでもないって気づいたとき、誰かが何かをしないことで当たり前に相手を責めていいとは思わなくなります。

 

だって自分にとっては当たり前で正しいことが、相手とっても正しいとは限らないんだし。

 

 

 

うまくまとまってないけどまあとにかく、自分の都合や感情を抑えてでも社会のルールや常識に従って自分のやるべきことをこなすのが大人。

 

でも常識とかそういうのを絶対視して完璧にこなそうとしてると、違う価値観をもつ人に寛容さがなくなるんだよね。ちゃんとした人ほど厳しくて窮屈だなって感じるのはここにあるのかも。

 

自分の価値感や考えを信じて疑わないがゆえに、そうでない人が許せないんだと思います。それは自分の存在を否定して脅かすものでもあるからね。でもそれは寛容さに欠けるっていうか。

 

一方で常識に縛られず、いろんな価値観を認めて、自分の正しさを他人に押し付けない人。こういう寛容さを持つ人って案外少なくて、こういうのは大人の一歩先をいく、成熟ともいえるのかなって思います。

 

そう言う自分はどうなのかってわが身を振り返るとちょっと耳が痛いけど、少なくとも同じでないことで人を排除するような人よりも、違いを受け入れられる人になりたいよね。